高校サッカー・指導者の言い分
先頭に立つ者は、笑って進む。
先頭に立つ者、すなわち指導者の皆さんはグランドに長時間立ち続けます。
雨の日はズブ濡れになり、猛暑の日は激しく吹き出す汗をぬぐいながら、常に先頭に立ち続けています。
体調が悪くても、いつもと変わらず、モチベーターとして立ち続けます。
お昼の弁当を16時頃食べる日も普通です。忘れてしまう日もあります。
それでも辛いと思った事はありません。
きっと仲間の指導者のみなさんも同じ気持ちかと思います。
前日に同志と飲み過ぎた時は少し辛いです(笑)。
辛いのは肉体的なことではないのです。
肉体的なことは一日休めば回復します。
一番辛いのは、精神的なダメージです。
トップアスリートの方々も同様かと察します。
指導者は、実は強そうに見えて、デリケートな方が多いです。
感受性が豊かでなければ、選手の心を豊かにすることはできません。
繊細でなくては選手を育てることはできません。
常に選手を細部まで観察し続けるには、選手の些細な表情や動作等の情報を誰よりも感じ取れる能力が備わっていなくてはなりません。
優秀な指導者になればなるほど、感受性が豊かになるのです。
よって、外部からのネガティブな情報も感じ取ってしまいます。
もちろん限られたカリスマ指導者は、ネガティブな情報をシャットアウトできる天賦の除菌フィルターが備わっているのでしょう。
指導者は、自分の子どもが熱を出そうがピッチに立ち続ける宿命です。
大会、総会、各種行事、出席が前提です。
人生の優先順位の一番、二番に置いて、日々勉強、研究、経験を積み続けている指導者が沢山います。
そこが指導者と、そうではない方との立場の違いです。
何処の世界でもそうですが、ネガティブな発言や行動をとられる方は、立場も意識も情報量も違う方の場合が多いと思います。
当事者にネガティブな意識がない事から、知らないうちに相手を傷つけてしまうのだと思います。
もちろん、立場や意識や情報量が違っても、お互いに自分の立ち位置をわきまえ、相手を敬い、良識を持った多くの方々によって社会が成り立っている事は承知しています。
話しは少し飛躍します。
指導者が親やお子さんに、来て欲しいと伝えると、勘違いする親もたまにいます。
急に色気を出す親もいます。
指導者はその選手の才能を見抜き、ただ単純に原石を育ててみたいと思っているのです。
高みを目指す事は人間として、アスリートとして、大切な事です。
それでも、その前に、人と人との出会いを大切にすること、謙虚な気持ちと人の道を外さないことが大前提です。
特待制度の高校もあるかと思います。
特待を貰えるから、その高校へ行くものではありません。
その高校でサッカーをやりたい。あの監督さんに教わりたい。
その後に、特待制度を付けて頂けた事に心から感謝する。
そういうものです。
そもそも指導者は特待生だからといって手加減もしません。
なんとも思っていません。
競争の世界は平等の上に成り立っています。
指導者はその道徳がなくては務まりません。
「特待付けて貰える高校を探してください」と指導者に相談する。
そんな勘違いをしている親もいるかもしれません。
高校の監督さんに「二人行かせるから特待付けて欲しい」と言っているジュニアユースの指導者がいたならば、その方は指導者ではなくブローカーです。
極めている指導者になればなるほど、才能ある選手を育てたいと思うのは当然です。
あの高校の、あのユースの、指導者に託したいと思うのも当然です。
それは、サッカーの世界に限らず、芸術、学問、政治・・・どの世界でも当然です。
こいつは次の世代を担うだけの逸材。
そんな想いだと思います。
育成年代においては、指導者の影響と同様、またはそれ以上に親の影響を受けて育ちます。
それだけに、親の人間としての素養が、お子さんの人生を分ける場合もあるかと思います。
指導者の皆さん。
素晴らしくて敵わない、素敵な子どもに好かれる指導者になってください。
素晴らしく養われた心豊かな、素養ある保護者様に信頼される指導者を目指してください。
「我思う、ゆえに我あり」 ~Cogito Ergo Sum~ René Descartes デカルトは説いています。
人の縁、そして自身の心を大切にしてください。
