高校サッカー・こころ
「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にするスポーツだ」
「ものを見るのは目ではなく心で見ろ。ものを聴くのは耳ではなく心で聴け。
目それ自体は物を見るだけであり耳それ自体は物音を聞くだけである」
日本サッカーの父・デッドマール・クラマーさんは言った。
私は「こころ」の大切さは指導者として一番重要に感じ続けなくてはならないと思います。
しかし「こころ」を深く考えてしまうと迷路のように迷ってしまいます。
若い時は自分に対して否定的な態度を取られると、その人に良い印象を持たなかったり、 自分の事を嫌いだと勝手に思ってしまった事もありました。
今は違います。
そう感じていた方とも親交を深めていくと全く違っていたという経験を沢山してきたからです。
自分の「こころ」でさえ常に「こころ」は変化しているのに、他人の「こころ」の確信をつかみ取る事は簡単にはできない事を年齢と経験から学びました。
つまり、人の「こころ」は内面にあって他人から見えない所に存在しています。
外面上の情報だけで内面的な「こころ」を判断してしまうのは危険だと思えるようになりました。
外面上の情報とは仕草、喜怒哀楽のような情報のことです。
特に、生徒・選手と先生・監督の場合はなおさらです。
内面関係(信頼関係)が築かれていれば問題ないのですが、 そうでない場合は外面関係だけとなりますから大変です。 生徒さんと先生とはどうしても対等にはなれなません。
多くの生徒さんは受け身(教わる側)になってしまいます。
推測ですが中田英寿さんのような例外な方もいるとは思います。
園児や小学校低学年だと、態度の悪い子も沢山います。
言葉を言い換えれば、わんぱくで子どもらしい子どもが沢山います。
話しは聞かない、鼻クソほじったり、タメ口、砂遊びを始める子もいます。
躾ができていなくても、言葉使いが悪くても、悪い子と決めつける必要はありません。
外的要素を変えてあげればよいだけです。
純粋な子どもほど無防備ですから内面的「こころ」は汚されていないと考えるべきが普通です。
中学生であれば、 監督から「お前は下手で使えない」とBチームに落とされたとしても、信頼関係があれば、「もっと上手くなれよ、そして戻ってこい」と言ってくれていると受け止めるでしょう。
監督から「サッカーなんて辞めてしまえ」と言われても「本気で俺を叱ってくれているんだ」と受け止める事でしょう。 信頼関係がなければ、全て真逆に受け止めるでしょう。
要はポジティブにもネガティブにも「こころ」次第で自身のエネルギーに変えられるのです。
高校生にもなれば、進路相談にしても同様でしょう。
安易に同意してくれる、いつも優しい先生が良い先生とは限りません。
自分の夢や将来の進路相談に対して厳しい事や無愛想で否定的な事を言う先生もいるでしょう。
自分は嫌われているとか、俺の進路を妨害していると思うかもしれません。
そんな先生は嫌いかもしれません。 それでもその先生の「こころ」の中は違う場合もあると思います。
もしかしたら、君の事を真剣に考えてくれている先生は後者の先生であるかもしれませんよ。
私たち大人(先生・監督等)にとって一番重要な事は、生徒・選手の「こころ」を問い正し、否定や強要をすることではありません。
生徒・選手の「こころ」を受け入れ、認め、自分自身の「こころ」を磨き続けることです。
生徒・選手の事を一緒になって親身に考える。 先生・監督といっても生徒と同じ不完全な人間であることを自覚する。
分野によっては生徒さんのほうが長けている場合もあります。
知識が乏しくても背伸びしてアドバイスしてしまう先生・監督もいるでしょう。
神様と勘違いしている先生・監督もいるでしょう。
残念ながら先生・監督は神様ではないのです。
君達の先生・監督は生徒・選手の失敗の結果だけで、騒いでいませんか?
あなたは、「こころ」でその先生・監督の問いかけを聞いていますか?
あなたは、「こころ」でその先生・監督を尊敬していますか?
生徒・選手には、挨拶や約束や時間厳守を強要するのに、 先生・監督は挨拶や約束や時間にルーズになっていませんか。
デッドマール・クラマーさんは「サッカーは大人を紳士にするスポーツだ」と言っています。
サッカー界が紳士の集まりになったら素晴らしいと思います。
少なくとも協会関係者、地域リーダーの方々が紳士であることを願っています。
紳士とはジェントルマンとも言われます。
本来は上流階級の男性を指すそうです。
難しいことはわかりませんが、私が思う紳士とは単純にフェアーに信頼できる人のことだと思います。
紳士協約なんていうのも新聞の活字に度々出てきます。
国家間でお互いに相手を信頼して履行することで使われる言葉です。
生徒・選手と先生・監督は、「こころ」と「こころ」の信頼なくしては成り立たないと思います。
生徒・選手達に「俺を信頼しろ」と言っても、先生・監督が生徒・選手以上に子ども達の失敗も含めて「こころ」で受け止めてあげないと、“俺“はいつまでも信頼されないことでしょう。
私達大人(先生・監督等)もそして君達(生徒・選手)も「こころ」について難しく考えないことです。
1979年ワールドユース国立。若きディエゴ・マラドーナの将来を予感する躍動。
1985年第6回トヨタカップ国立。ミシェル・プラティニの幻のボレーシュート。
1986年ワールドカップアジア最終予選国立。韓国戦前半終了間際左隅サイドネットに突き刺した木村和司さんのフリーキック。
どれもが、ただ単純に感動しました。今でもあの時の興奮は忘れられません。
君達も ネイマール、メッシのドリブルを観て凄いと興奮するでしょう。
壮大な景色を見て感動するでしょう。
嬉しいときはおもいっきり喜びなさい。
悲しいときは悲しみなさい。
感覚で、感性で、あるがままに「こころ」で感じれば良いと思います。
きっとデッドマール・クラマーさんはそう言っているのだと思います。
先生も生徒もサッカーに魅せられて出会った必然の人間同士であるということです。
いい加減そうで、怖そうで、近寄りづらくて、変人に見えたり。
そんな個性の強い先生や監督さんであったとしても、生徒・選手達が「こころ」から尊敬できる先生や監督さんであれば、選手達はみんな活き活きとしていると思います。
暴力禁止の世の中です。
絶対にありえないですが、そんな先生や監督さんから君が殴られたとしたら、 他の生徒・選手達は君を羨ましいと感じると思います。
生徒・選手の皆さん。 外面的に、いい加減そうや怖そうに見えても、内面的「こころ」は最高な大人と出会える事を願っています。
そして自身の「こころ」を磨き続けてください。

青々と大きく真っ直ぐ育ってください。
